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2013年5月27日月曜日

人生は1回である。(将来の君へ)

人生は1回である。(将来のきみへ)

当たり前の事を書くが、生物は1回生まれ、死ぬのも1回である。

人生は続いているように感じるし、ずっと続くような気持ちがある。

赤ちゃんが子どもになり、青年になり、大人になり、年老いる。

毎日でいえば、たわいのない会話をしたり、ご飯を食べたり、働いたり、勉強したり、遊んだり、一生懸命になったり、スポーツしたり、だらだらしたりと皆、様々な日常がある。

日常の時間は進み、人生は進んでいる。時は止まってはいない。身体は変化しているし、老いを戻す事は出来ない。

時々、何かのひょうしに自分の人生に終わりがある事に気づくと悔しく思い、胸の奥があくような、うづくような痛みのようなものを胸に感じる。

悔しく思うだけ、今の人生を肯定し、自分と向き合い、長い間の自分と付きあえているのだろう。

容姿がいいわけではない。頭が良いわけでもない。お金があるわけではない。むしろ、自分が嫌でたまらない日々があり自分の存在を消そうと思った日々もある。

だが、たくさん迷ったが人生を続けていれば何か1つでもいいことがあるだろうと思って生き続ける事に決めた。

自分を否定してばかりでは自分を活かせてない。自分を好きにならなければ、人生は進まない。自分を楽しめなければ人生は楽しくない。自分を受けとめるしかないと思いながら生きることにした。

自分と付き合い、向き合うにはなんと長く骨のかかる事か。葛藤で眠れない日もあった事を思い出す。そして時おりくる漠然とした死という存在にも怯え、寝つけない日もあった。

死を感じる度に、人生を大切にしなければいけない。自分のやれる事をやらなければいけない。大切な人に優しく接してあげなければならない。そう思うのである。

すれ違う人でも一生に一度会うかどうかも分からないが人生としては平行にすすみ、一瞬でも交差したわけだ。出会いは貴重である。その時にたまたまいるから出会える。すれ違った人にも人生としては感謝であろう。

電車に乗り、目を開ければ、何人、何百人と毎日すれ違う。人生で一体何人とすれ違ったかを調べれば、すごい統計人数になるだろう。

さらに、今の時代ならではであるがネットで出会う人もまた多い。

たまたま人間は脳が発達してるから、ネットでも言葉に書けるが、他の動物ならそんな事もない。生きるので必死である。

数日も生きない生物もいる。人間である事に感謝であろう。

だが、人間でも生き続けるというのは難しい。思うように進んでは行かないし、時に時間も制約され、楽しい事はあっという間に終わる日もあれば、ストレスだらけの長い日もある。

たかが100円のジュースを買うにしても何十分と吟味したり、節約したりと、自分の中でも素直に買えないロジックがある。

長い人生で見れば、貴重な時間を無駄にしているわけだが、そのロジックが人生を謳歌させているわけでもある。

かといって、人生を暴走させては、人生を台無しにする。他人に迷惑をかけてはいけないという、法律規則がある以上、やけになってもいけない。

実際、自分でなくても家族が誰かに迷惑をかければ連帯責任のような仕打ちを受ける事がある。それだけ、罪は重く、統制されている。

かくして、一定の中で慎ましやかに生きるというのが、前提条件であるのだ。

もちろん、慎ましやかに過ごしていても事故や事件に勝手に巻き込まれる可能性はある。

平穏に過ごしていても運命は時に歯車を変える事だってありうる。いつ関わるか分からないのが正しいのだが、何事も起きないような錯覚というか、楽観的に過ごすように人間は動いているようだ。

もろく危ういのは確かでりあ、一瞬の出来事でもあるが分からないのだ。

また、ここには思想も関係する。

いくら、生まれ変わりや次の世の中があると宗教的な認識があっても、現実的に生まれる前の過去の記憶はない。もし、あるというならその人は幸運であろう。

多数の失敗を重ね経験していくカテゴリーを飛ばし、より賢明な人生を歩めるであろう。過去の経験を周りに活かせば良いのだ。

もちろん、人間の性ではあるから直したくても直せない性格や癖もある。過去の生前の経験も引き継いでいるのかもしれない。

例えば、免許更新のハガキが来たので手続きに急いで行ってみると、受付期間内に来て下さいと一蹴されてしまった。

誕生日は変えれない…。誕生日の前後1ヶ月に行かないと行けないのだ。
ルールはルールである。

良く見ていない自分が悪かった。生前の過去の記憶が仮にあったとしても、そそっかしさは変わらなのではないだろうか。

生前の記憶がない私としては、1日の更新時間内に間に合うように急いで走ったのに根本の受付日時を間違えていた。まさに無駄骨である。

しかし、人生に無駄はないと思う。これも人生のロジック。

しっかり書いてある事を読みましょう。小学生でも言われていた事が今も続いているわけだが、これも嫌な所だ。だが、そううまくは改善されないロジックがあるのも人生。

更新手続きの為にお金を払った交通費は無駄となったが、人生の糧ではある。

出会った人達もいたわけだし、いくらか経済にも貢献したわけだし、駅員や免許更新係の仕事を充実させたかもしれない。せっかくなので周りを散策した。もったいないから、散策したが正しいがこれもロジック。
笑い話である。そういう日もある。意気消沈はしたが、ガックリきているよりはめげずにいる方が楽しい。
人の意識や意思で何もかもが変わる。それが人生のロジック。

一例ではあったが生前の記憶が役立つ事は少ないのではと思う。

たまたま、日本人に生まれたが、世界の民族は現世で考えても数百を越える。

仮に、2000年から3000年の間で1回死んだ場合、別の民族になれるというルールがあったとしても、また1から始める事になるではないか。言葉も違う。食べ物も違う。衣装や文化も違う。今ある常識やルールはその地域でしかない。
裸で虫を食べるとか、日本では考えれない事でも世界ではざらにある。男と女でも人生は180度違う。

今、生きている間でも他国に移民しようと思うと大変な努力が必要で1年生からまた始める事になるのだ。それならいっそ生前の記憶等は邪魔であろう。余計にパニックになる。

勝手な妄想のような想像であったが、それだけ多様な人生がある。死後は未知の領域でありながら、現実的には人生は1回しかないといえる。危うい中にも人は生きている。

人生とは何と平等な事か。初めと終わりは与えられているのだから。

もちろん、間をどれだけ充実させるかはその人次第。
道草や散策も人生を謳歌させるための休息である。もちろん、休息しないのも人生でありむしゃらに進むのも人生である。

何に興味を持ち、その時間を割り当てるのか、少しは選べる時代(国)であるからまだ幸運だろう。統制されればその術もないわけだ。

こうやって記事を書く行為もルールにそう範囲では自由だから出来る。

誰かの為に書くのではなく、自分が生きた証であり、家族や知り合いに見てもらえる機会を作っただけではあるのだが、その気持ちは大事であろう。

もちろん、手記に残すのでもいいのだろう。偉人でもないから、全ていづれは焼却される。それでも書く事には意義がある。下らない内容を書いているととらえられても、こんな事を考えたという記憶も自分が死んだだけでは形にも残らない。

遺言キットが2、30の若い世代から流行る気持ちがなんとなく分かる。誰しも通る道と分かっているから、形に残したいのだ。

遺言は自分の為だけではないのだが、何か形にでも残ると周りには後々伝わりやすい。口では伝わらない感情や思いはあるからだ。

思うとしたらまだ生きている家族や知人にいかに人生を充実してもらうか?生きるという貴重な時間を大切にしてもらうか?という事ではないだろうか。

自分のことで誰かの妨げになるのはやはり気持ちが良くはないだろう。

誰だって泣くよりは笑う方がいいだろう。怒るより、心穏やかな方がいいだろう。人生を楽しめる方がいいだろう。そうあって欲しいと願うのは健全な気持ちであり、周りへの配慮である。

伝える際には、高望みせず、自分のありのままを見つめ、伝える事が必要であろう。相手に伝えるとはなんと難しいことか。

人間には時が進むに連れて出来るようになったり出来た事が出来なくなったりと常に自分の存在と行動に対して考える機会を与えてくれている。

振り返り、過去に浸り、思いとどまるより、反省し前に進む道を今、見直した方がどれだけ賢明だろう。

なんと、当たり前のことか。それでも、素直に動けないロジックがある。自分は人生は1回であると分かっているではないか。

ディズニーの言葉を借りれば、

happines is here

「幸せはここにある」という意味である。

幸せと感じるのも不幸せに感じるのも全ては自分が決めた事。どんなに病気でもどんなに五体満足で動けなくても、どんなに辛くても幸せを感じる機能は自分が持っている。

今日も生きている。それだけで幸せである。いや、それが幸せを作りだす根本である。だから、生きるとは大切なのである。

自分の中のつまらないロジックを楽しめるのも、考えれるからである。

辺りを見回せば、何万という動植物がいる。もちろん、彼らも考えている。種の保存だ。遺伝子だと言われればそれまでだが、考えていると言っておきたい。そういうふうに考えるのも楽しみではないだろうか。

人間が形作れる創造。同じものはない。たった1つの自分であり、絵を描いても分かるが同じ空は描けない。形も違うし色も違う。これも創造である。

生きるという、選択肢がまだ与えられている事に感謝しよう。そう考える時間がある事に。

そして、幸せになる事を創造しよう。

今は窮屈で制限があり、自由等ないかもしれない。生きている事に対して暗く苦痛な日々が続いているかもしれない。絶望と孤独の淵にいるかもしれない。身体の自由もきかない、未来もない不都合な体かもしれない。死を覚悟する程未来はないかもしれない。痛みと苦痛で気がおかしくなっているかもしれない。そんな極限では楽しみもやりがいもないかもしれない。

しかし、どれだけ自分自身が悲鳴を上げていても、頭の創造は唯一自由である。幸せを作れるのは自分であり、生きているからである。

もちろん、頭の自由も奪われる場合もあるかもしれない。

だが、最後まで創造する事が可能なのは生きているからである。頭の自由も奪わればもう何も出来ないとは思わない。生きる力には未知の力がある。

年をとり痴呆で記憶を無くす場合もあるだろう。しかし、生きるのである。周りから見れば、何と不幸な事かと思うかもしれないが、それでも生きているのである。生きている体はその人の過去の言動も思いおこさせる。

私は生きている。そう聞こえてくるのだ。なんと不思議な事か。他者への創造も働いているのだろう。

生きるとは根本である。幸せ、不幸とは自分が決める事。周りに決められるものではない。

だからこそ、過去の発言を尊重するのだ。自分を尊重してもらうには相手を尊重しないと始まらない。これも人生のロジック。死の間際に正気になる場合もある。

色々、経験しても最後は必ず終わる。いい意味で終わりたい。そう思うのだ。

もちろん、幸せは人生の1%かもしれない。ほとんど不幸だという人もいるだろう。だが、人から見れば幸せだったり不幸だったりと尺度は異なる。見た目と中身は異なる。

自分は幸せである。そう一言、言ってみよう。何を言ってるのかと思うかもしれないが、まず、喋れるではないか。喋れないなら書いてみよう。書けるではないか。書けないなら意識で伝えよう。伝えれるではないか。

伝わる時点で大きく幸せである。伝える手段があるということ。今、あるものを使えるということ。

人間は本当に病気になったり怪我したりして、初めて気づく。

食べれない。動けない。

人生では弱る時が必ずある。しかし、過去にした思い出を糧にしよう。過去が悪すぎたなら今を見つめ、過去が輝きすぎたなら、それを励みに。

分かっているではないか。人生は1回だと。

今、暗く疲れている君よ。

君は生きているではないか。生きている限り君は君でいられる。君は君自身で創造出来る。君は君を理解し大切にする時間がある。君は命がある。源がある。

君は君である。

それは誰にも止めれない。
人生は1回である。将来の君へ

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